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 聖書を読もう! ルカによる福音書3章  →全文

 「バプテスマのヨハネ、神の言葉を語りはじめる」(3章1節〜14節)

救世主待望論がますます高まる

 2章では、イエスの少年時代までが語られましたが、3章になって、少し先に生まれたバプテスマのヨハネが、いよいよ活動を開始します。その年代はいつごろか、福音書の記者であるルカはこのように記しています。

「皇帝テベリオの在位の第15年、ポンテオ・ピラトがユダヤの総督、ヘロデがガリラヤの領主、その兄弟ピリポがイツリヤ・テラコニテ地方の領主、ルサニヤがアビレネの領主、アンナスとカヤパとが大祭司であったとき、神の言(ことば)が荒野でザカリヤの子ヨハネに臨んだ。」(ルカ3:1〜2)

 皇帝テベリオとはローマ帝国の二代目皇帝、ティベリウス・ユリウス・カエサルのことです。彼の在位15年ということですが、ティベリウスの在位は紀元14年から37年なので、ここから換算すると、紀元29年の出来事ということです。 前回お話ししたように、ヘロデ王の死後イスラエルは4人の息子に分割され、それぞれが王から領主へとランクダウンしています。それだけ、ローマの支配が強まったということでしょうね。 アンナスとカヤパという大祭司、彼らはユダヤ人の宗教指導者層で構成される「サンヘドリン」という議会の議員でもあり、のちのち大事な場面で登場しますので、頭の片隅にでも置いておいてください。  さて、そんな中、1章で祭司ザカリヤの息子として生まれたヨハネが、荒野にて活動を開始します。聖書の人物には同名の人が多いので、彼は「バプテスマのヨハネ」と呼ばれています。バプテスマとは洗礼のことで、彼は多くの人に洗礼を授け、またイエスご自身にも洗礼を授けたことから、こんなふうに呼ばれています。


バプテスマのヨハネが活動したユダの荒野(イスラエル)


人々に「生き方を変えなさい」と迫るバプテスマのヨハネ

 バプテスマのヨハネは、神の言葉を受け取り、人々に伝える「預言者」でした。預言者というのは、旧約聖書にたびたび現われます。「イザヤ書」「エレミヤ書」「エゼキエル書」などは預言者の言葉を編纂したもので、最後に活動した、マラキという預言者の書で旧約聖書は終わります。

 ところで聖書の「旧約」「新約」って何だろう、と思いませんか? そういえば、20年ぶりに再編集されて映画化された「Zガンダム」は「新訳」って呼ばれていましたね。これは聖書の新約をもじっているのかな? と思いましたが、訳と約とは、意味がちがいますよね。Zは何を新しく翻訳したのか、富野監督にしかわからない富野語か? と思いますが、聖書の「新約」「旧約」とは、「新しい契約」「古い契約」という意味で、いずれも「神」と「人」との契約、約束を意味します。

 本題に戻りますと、旧約聖書の時代最後の預言者マラキから、新約聖書の時代になって登場する預言者バプテスマのヨハネまで、およそ300年から400年の空白期間がありました。その間、神はいっさい、イスラエルの民に語らなかったのです。
 そして、300年ぶりに現われた預言者、バプテスマのヨハネはというと…

「まむしの子らよ、迫ってきている神の怒りから、のがれられると、おまえたちにだれが教えたのか。だから、悔い改めにふさわしい実を結べ。自分たちにはアブラハムがあるなどと、心の中で思ってもみるな。おまえたちに言っておく。神はこれらの石ころからでも、アブラハムの子を起こすことができるのだ。」(3:7〜8)

と、えらい剣幕です。
 まむしの子ら」と呼びかけている群衆は、ユダヤ人ですが、まむしというのは毒蛇で、邪悪なもののたとえとされています。どうして同胞であるユダヤ人をこれほど非難しているのか、私たちにはよく分からないところですが、これは、こういうことです。当時のユダヤ人は、神から選ばれた民であるという昔からの信仰を持っていました。そして、ユダヤ人として生まれたというだけで、神の国に入れる資格を得ている(救われている)と考えていたわけですね。そんな民衆に、「それは甘い!」とヨハネは喝をいれているのです。「悔い改めにふさわしい実を結べ」(3:8)と言っているように、ヨハネは、集まってきた群衆一人ひとりに対して、罪の悔い改めを迫り、悔い改めた人には、生き方を変えるよう教えていました。「持っている者は、持たない者に分けてやりなさい」とか、「人をおどしたりだましてはいけない」といったようなことですね。それは、来るべき救い主の到来が、今にも迫っているためでした。

(つづく)

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