MUDDY WALKERS 

パッション The Passion of Christ

パッション 2004年 アメリカ・イタリア 127分

監督メル・ギブソン
脚本
メル・ギブソン
ベネディクト・フィッツジェラルド

出演
ジム・カヴィーゼル
モニカ・ベルッチ
マヤ・モルゲンステルン

スト−リ−

 …それから、イエスは彼らと一緒に、ゲッセマネという所へ行かれた。そして弟子たちに言われた、「わたしが向こうへ行って祈っている間、ここにすわっていなさい」。そしてペテロとゼベタイの子ふたりとを連れて行かれたが、悲しみを催しまた悩みはじめられた。そのとき、彼らに言われた、「わたしは悲しみのあまり死ぬほどである。ここに待っていて、わたしと一緒に目をさましていなさい」。そして進んで行き、うつぶしになり、祈って言われた、「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らしてください。しかし、わたしの思いのままにではなく、みこころのままになさって下さい」。それから、弟子たちの所にきてごらんになると、彼らが眠っていたので、ペテロに言われた、「あなたがたはそんなに、ひと時もわたしと一緒に目をさましていることが、できなかったのか。誘惑に陥らないように、目をさまして祈っていなさい。心は熱しているが、肉体は弱いのである」。また二度目に行って、祈って言われた、「わが父よ、どうかこの杯を飲むよりほかに道がないのでしたら、どうか、みこころが行われますように」。またきてごらんになると、彼らはまた眠っていた。その目が重くなっていたのである。それで彼らをそのままにして、また行って、三度目に同じ言葉で祈られた。それから弟子たちの所に帰ってきて、言われた、「まだ眠っているのか、休んでいるのか。見よ、時が迫った。人の子は罪人らの手に渡されるのだ。立て、さあ行こう。見よ、わたしを裏切る者が近づいてきた」。(マタイによる福音書26:36〜46)…ローマ帝国統治下のイスラエル。ユダヤ教の聖典、聖書の言葉を大胆な解釈で説き、様々な奇跡を行っていたイエスは聖職者たちの妬みを買い、イエスが自分を「神の子」と言うのは神に対する冒涜だとして、ローマ総督ピラトに十字架刑を要求する。12弟子の一人、ユダに銀貨30枚で売られたイエスはローマ兵に連行され、鞭打ちのうえ十字架刑に処されることに…。

レビュー

 イエス・キリストの生涯のうち、ゲッセマネの園でローマ兵に捕らえられてから十字架刑に処されて死ぬまでの12時間を切り取って克明に描いた、非常に挑戦的な映画である。というのも、この作品は映画の重要な要素の一つである「物語」をばっさりと切り捨ててしまっているからだ。メル・ギブソンはイエス・キリストの生涯を物語ろうとしたのではなく、スクリーンを通して、イエスが十字架につけられた現場を再現した。この作品を観るとき、私たちは観客ではなく、さまざまな思いをもって十字架刑を見物するために集まった群衆の一人になるのだ。だからこそ、この映画を観てショック死する人が出たり、あるいは殺人犯が自首するようなことが起こったのだと思う。彼らは映画を観たのではなく、イエスが処刑される現場に立ち会ったのだ。その意味で、メル・ギブソンの壮大な試みは見事にあたった。

 現場の再現という目的のため、歴史考証だけでなく、言語も当時話されていたアラム語(ヘブライ語の方言)、ラテン語となっている。しかしアメリカで外国語の映画はヒットしないという常識をうち破り、2004年年間興行収入ランキングで「シュレック2」「スパイダーマン2」に続く3位に入った。それも不思議ではない。物語るなら言語は重要だが、人は現場に居合わせることき、言葉の意味を越えて状況を理解しようとするものだ、その気持ちさえあれば。だから、キリスト教や聖書に馴染みのない日本でも、多くの人がこの映画を受け入れることができた。知性ではなくエモーショナルな部分が揺さぶられるのだ。聖書の知識を持っているが、信じているわけではないという人が最もこの映画を受け入れがたかったのではないか。

 ただ、プロテスタントの私にとってイエスの母、マリアの存在は少々「邪魔」に感じられることがあった。イエスが十字架を背負ってゴルゴダの丘へ向かう情景は、マリアの視線を通して描かれる。しかし、マリアがイエスを見る目と、私たちがイエスを見る目は違うのだ。その違いのために、しばしば前を遮られるような感じがしてならなかった。これはカトリックの教義からくるものだろうが、現場を目撃させるという作品の意図からすれば、マリアも群衆の一人として淡々と描かれた方が良かったと思う。

 イエスを演じたのは、ジム・カヴィーゼル。全編にわたって鎖をかけられ、鞭で打たれ、十字架を背負わされ…とひたすら痛みと非難、敵意、嘲笑に耐えるという、痛ましい役どころである。イエスを演じることは魅力的ではあろうが、この作品ではイエスの一番惨めな部分だけを切り取って描いている。この役を引き受けるには大変な決意が必要だっただろう。しかしその演技は非常に的確で、イエスそのものを見ているようだった。またその他の登場人物で印象に残っているのは、俳優の名前はわからないが、途中で十字架をかつがされるクレネ人シモン。最初はいやいやかつぐが、このイエスの有様に心を動かされたようである。それが何なのかをこの映画は説明しないが、恐らく同じ思いで、多くの人は心が動かされたのではないだろうか。

彼は侮られて人に捨てられ、
悲しみの人で、病を知っていた。
また顔をおおって忌みきらわれる者のように
彼は侮られた。われわれも彼を尊ばなかった。
まことに彼はわれわれの病を負い、
われわれの悲しみをになった。
しかるに、われわれは思った、
>彼は打たれ、神にたたかれ、苦しめられたんだと。
しかし彼はわれわれのとがのために傷つけられ、
われわれの不義のために砕かれたのだ。
彼はみずから懲らしめをうけて、
われわれに平安を与え、
その打たれた傷によって、
われわれはいやされたのだ。
(旧約聖書 イザヤ書53:3〜5)

評点 ★★★★

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