MUDDY WALKERS 

太陽 The Sun

太陽 2005年 ロシア・イタリア・フランス・スイス 115分

監督アレクサンドル・ソクーロフ
脚本ユーリー・アラーボフ

出演
イッセー尾形
ロバート・ドーソン
桃井かおり
佐野史郎
つじしんめい

スト−リ−

 1945年の東京。沖縄が米軍の手に落ちて、いよいよ敗色濃厚な日本。昭和天皇(イッセー尾形)は皇后(桃井かおり)と皇太子を疎開させ侍従(佐野史郎・つじしんめい)にかしずかれながら、地下壕で孤独のうちに暮らしている。御前会議に出たあとは、海洋学の研究に没頭するが、頭の中には、なぜ日本がこの戦争を始めたか、なぜ日本は敗戦するのか、そういうことが時折かけめぐる。空襲警報が鳴り地下壕に退避して、天皇はうたた寝のうちに夢の中で東京の街が燃え上がる幻を見て、涙する。やがて戦争が終わり、マッカーサー(ロバート・ドーソン)と対面することになる。そのとき天皇の心の内で、ある決心が固まっていた…。

レビュー

 神という概念は、キリスト教文化圏と日本とでは大きく異なっている。日本では、木や岩や、時には身近な人間さえも「神」になる。2ちゃんねるでは、彼らの価値観ですごい事をなしとげた人を「神」と呼ぶ。人間が神になることは、特別なことではない。けれどキリスト教文化圏では、そうではない。日本人が神として拝んでいるものはすべて「造られたもの」であって、それは偶像礼拝ということになる。神は目に見えず、触れることもできない。ただ神は人となってこの世に姿を現したことがあった。それが、イエス・キリストである。彼こそ人であり、神である唯一の存在というのが、キリスト教文化圏の常識である。
 戦国時代に日本にキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルは、彼らがいうところの「神」と日本人がいうところの「神」の概念があまりにも違っているために、聖書の言葉を日本語に翻訳するとき、神という言葉は日本語に訳さずそのままラテン語の「デウス」を使ったという。このように「神」の捉え方がそもそも違うから、天皇は現人神である、という戦前の日本人の常識を、キリスト教文化圏の人はまったく異なった感覚で捉えていたのだろう。

 この映画は、これまでも様々な作品で描かれてきた、敗戦時の日本と天皇を取り上げているのであるが、従来の作品のように、その歴史的な側面や意義、あるいは天皇の戦争責任といったような政治的なテーマを問いかけるような描かれ方はしていない。人の子として生まれ、神となったイエス・キリストと逆の歩みを強いられた昭和天皇という存在、ただそれだけが描かれているのである。

 映画では、地下壕で朝を迎えた昭和天皇の描写で始まる。天皇は人間でなく神であると思っている侍従は、朝食を運ぶときも、天皇の着替えを手伝うときも、息を止めているのかと思うばかりに緊張している。しかし天皇自身は、自分が神ではなく人間であるとわかっており、実に飄々としたものである。自分は神ではない、と天皇は言う。「皮膚になんの印もない」と。この一言は重要である。「皮膚に印がある」とは、イエス・キリストの暗喩である。十字架刑のあと復活したイエスには、手首に釘を打たれた跡があるという、聖書の記述に基づく言葉であろう。ラスト近くで皇后に向かっていう「私は成し遂げた」というセリフも同様に、イエスが十字架上で語ったとされる言葉を引用したものである。マッカーサーとのやりとりは、イエスとピラトとのやりとりを思わせるもの。かようにこの作品で、昭和天皇はイエス・キリストの写し鏡のように描かれているのだ。
 映画の舞台となった1945年は、波瀾万丈の年である。東京大空襲、沖縄戦、硫黄島の戦い、戦艦大和の沈没、ヒトラー自殺、ポツダム宣言、広島、長崎への原爆投下。しかし、映画ではそのような第二次世界大戦の歴史的側面ではなく、その期間の昭和天皇という人物の私的な心情のみにスポットがあてられる。だから、この時代を描くための定石となっているような場面はほとんど描かれない。ただ、地下壕で「神」として生きる孤独に耐えながら、敗戦後に思いを馳せる天皇の人間的な姿が映し出されるだけである。

 だから、この映画は私たちがよく知っている歴史の一場面を描いているにもかかわらず、まったく見たことのないストーリーに仕上がっている。その時、神として生きることをやめ、人間として扱われることを選んだ一人の人物の心である。侍従に口述筆記させたり、マッカーサーと面談したりするとき、天皇はほとんど意味のある、あるいは価値のあるように思える言葉を話さない。だから、見ようによっては「バカ」みたいに思える。しかし、そうではないんだろうな、と私は思った。何を話すかではなく、どのように話すか。そこにアレクサンドル・ソクーロフ監督はこの特異な立場に置かれた人物の心を表現しようとしているのではないか。淡々とした、時には意味不明なかみあわない会話や行動の中に描かれているものを見出そうと、私は画面にずっと引きつけられていた。

 それにしても、この監督はロシア人でありながら、実によく当時の日本のことをよく掴んでいると思う。なぜ日本は開戦に踏み切ったかを天皇が自問自答するところがある。「大正13年に受けた屈辱」がその原因だというのだが、それが何か、今の多くの日本人はすぐには分からないだろう。それは国際連盟で日本が提出した人種平等決議案が否決されたこと、そしてアメリカで制定された排日法のことを言っているのだ。私たち日本人は、当時の日本人の置かれた立場や心情を忘れ、教えもしていないが、監督はそこに目を留め、天皇にそれを語らせる。また、マッカーサーと対面したとき、天皇に「どんな決定も私は受け入れる」と語らせている。これは、実際に昭和天皇が「私は死刑になってもいいから、日本国民を助けてやってくれ」とマッカーサーに言ったとする説をとるものである。この映画での昭和天皇は、おどおどして、時に幼稚なふるまいを見せる、権力者に似つかわしくないように見える人物として描かれているが、見かけはそうであっても決してそれだけではない深さをも描いているように、私は感じた。
 それを象徴するのが、天皇がアルバムにして大切に持っている写真である。一つはチャールズ・チャップリン、そしてもう一つはアドルフ・ヒトラー。それは、欧米人が昭和天皇からイメージする二つの像を表しているのだろう。その実像は対照的な二人の人物のどちらの生き方に似ていたのか、そんな問いがなげかけられてくる。

 物語は地下壕とトンネルで行き来できる海洋学研究所など、ごく限られた舞台で展開するので、映画というより演劇みたいな感じである。昭和天皇を演じるのはイッセー尾形。私もテレビなどで見覚えのある立ち振る舞いや口癖をとらえて、特異なキャラクターを見事に表現している。これは天皇の素の姿なのか、それともそのように演じているのかと勘ぐらせるような、不思議な深みのある演技。対する皇后の桃井かおりは、思いっきり生々しい人間性を見せつけて、そのギャップが強烈であった。<
 疲れているときに鑑賞すると、5分で爆睡してしまいそうな作風であるが、アップを多用した画面には緊迫感があり、その不思議な「間」とあいまって、最後まで世界に引き込まれてしまった。魚と海のイメージで表現した幻想的な東京大空襲の映像も見事。複雑な背景のからむ時代の様々な要素の中から、本当にテーマにすべきものだけを選び、他のものをそぎ落として創り上げた抽象画のような作品である。

評点 ★★★★★

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