MUDDY WALKERS 

沈黙 ーサイレンスー Silence

沈黙 2016年 アメリカ 162分

監督マーティン・スコセッシ
脚本
ジェイ・コックス
マーティン・スコセッシ
原作遠藤周作「沈黙」

出演
アンドリュー・ガーフィールド
リーアム・ニーソン
アダム・ドライバー
窪塚洋介
浅野忠信
イッセー尾形
塚本晋也
笈田ヨシ ほか

スト−リ−

 1640年。日本でキリスト教の布教活動をしていた宣教師フェレイラ(リーアム・ニーソン)が幕府に捕縛され、拷問に堪え兼ねて棄教する。ヴァリニャーノ神父からその知らせを聞いたフェレイラの弟子、ロドリゴ(アンドリュー・ガーフィールド)とガルペ(アダム・ドライバー)は真実を確かめフェレイラを助けるべく、禁教下の日本に渡ろうとする。マカオでキチジロー(窪塚洋介)という薄汚い日本人と出会った彼らは、彼の手引きで長崎に入る。そこで彼らを迎えたのは、潜伏しつつ信仰を守っていたキリシタン、イチゾウ(笈田ヨシ)とモキチ(塚本晋也)だった・・・。

レビュー

 遠藤周作の原作を読んだのは、学生の頃ではなかったかと思う。キリスト教をテーマにした作品だったことが手に取ったきっかけだった。当時、母が教会(プロテスタント)で洗礼を受け、何かにつけてキリスト教のことを話題にしたこともあり、興味を持ったのだと思う。他に「侍」「死海のほとり」を読んだ覚えがある。端的にいうと、聖書の語るイエス・キリストを「うそ〜ん」と思っていたけど、遠藤周作が描くイエスは好きになれなかった。弱々しいだけの人。そういう感じがした。だから、マーティン・スコセッシが本作の映画化すると聞いても、あまり興味を持てなかった。

 だが、それから28年がたち、ついにその映画が公開されるというときになって、見てみたいという思いが強くなった。スコセッシはイエス・キリストを題材に「最後の誘惑」という映画を製作していた。イエスがマグダラのマリアに懸想したり、十字架にかかるの、どうしようかな、やめようかな、と人間的に迷うという映画らしい。私はそれを見なかったが、クリスチャンになったばかりの頃、教会の若者の集まりの中で、その映画を見たという青年がこう言ったのを、今でもよく覚えている。
「僕、あんなイエス様にはついていけへんわ〜」
 そうか、と思ったのだ。この青年の言うことが、おわかりになるだろうか。イエスが人としてこの世に来たのは、十字架にかかって人類の罪を購うためなのだ。それを「痛そうだし、やめようかな」と迷うようなキリストは信じる価値がない!ということなのだ。
 そういう映画を撮った監督が深い共感を覚えたという遠藤周作の「沈黙」。一体どんなふうに解釈して、どんなふうに描いているのかと興味がわいてきた。

 映画は162分という大作だが、長さをまったく感じさせず、その世界にぐぐっと引き込む力のある作品だった。ただ、見終わった後に何を語ろうか、というとすぐには出てこず、そして、考え出すといろいろな要素が頭の中に乱れ散る。史実をもとにした話であり、キリスト教が取り上げられ、異文化の衝突という要素もある。しかし、レビューにあたっては、これはあくまで遠藤周作の心象と葛藤を表現するために書かれた小説を基にしている、ということを土台にしようと思う。

 物語は、ロドリゴ、ガルペという二人の若い神父が、ヴァリニャーノ神父から日本に派遣された宣教師、フェレイラが棄教した、という知らせを聞くところから始まる。このヴァリニャーノ神父という名前に、聞き覚えはないだろうか。近江の人はとくに知っていてほしい。安土城で織田信長と面会したイエズス会の神父で、今でいう東アジア地区スーパーバイザーともいうべき人物である。また天正遣欧少年使節を企画し、4人の日本人少年をバチカンに連れていった人物でもある。とすると、何やらおかしい。なぜならフェレイラが穴吊りの拷問で棄教したとき、同じ拷問で殉教した中に、天正遣欧少年使節でローマに行った中浦ジュリアン(司祭)もいたのである。彼はそのとき64歳であった。ということは、ヴァリニャーノ神父はとっくの昔に死んでいるのだ。ここに、これは史実に創作が入ってますよー、という前振りがある。

 ロドリゴ、ガルペの二人は師と仰ぐフェレイラの棄教に衝撃を受け、それが事実かどうか確かめ、助け出すべく日本への渡航を企て始める。ここで出会うのがキチジローという日本人。酒浸りで荒れた生活を送っている。キリシタンであるために家族全員が処刑され、生き残った彼だけがマカオに逃れて来たのだという。二人は「こんなヤツに、日本へ渡る命運を託すなんて」と眉をしかめるが、背に腹は変えられない。日本に帰りたいんだろう、と焚き付け、キチジローの手引きで長崎へ上陸する。
 するとたちまちキチジローは姿を消してしまい、すでに禁教令が出て厳しい幕府の監視のある長崎の浜辺で二人は途方に暮れる。そこへ、松明を持った老人、イチゾウとモキチが現われ二人を村へ招き入れる。彼らは幕府の監視の目を逃れて隠れ住む潜伏キリシタンであった。

 ロドリゴ、ガルペがイチゾウの家で、粗末な食事を振る舞われる場面は心温まる一コマである。空腹にすぎた二人は差し出された食事を手づかみでガツガツ頬張る。イチゾウの家族が手を合わせて食前の祈りを捧げるのを見てあわてて祈る様子が微笑ましい。と同時に、彼らが異なる人種、異なる文明にあって初めて出会ったもの同士でありながら、共通の「ことば」を持つひとつの共同体であることを感じさせる。国を越え、文化を越え、人種を越えて一つの共同体をつくる、というキリストの理想がこの貧しい家の食事風景に表れていて、私はとても心温まる思いがした。

 イチゾウを頭とするトモギ村で二人は潜伏しつつ司祭としての務めを始めるが、昼間は小さな炭焼き小屋に隠れ、夜だけ活動するという鬱屈した暮らしに倦んでいく。フェレイラを探すという目的を果たすため、ロドリゴは危険を冒して五島へ渡る。そのような中でトモギ村がキリシタンの村だと疑いをかけられ、村を代表して3人が調べを受けることになる。二人はイチゾウとモキチ。あとの一人を選ぶのに、なぜかその場にいたキチジローが選ばれる。家族もなく、五島の者だから、ということだろう。イチゾウはこのときロドリゴに手作りの十字架を手渡す。踏み絵を踏まされ、十字架に唾をはきかけろ、と役人に命じられると、キチジローはその通りにするが、イチゾウとモキチはそれを拒み、海中に立てた木に磔にされ、高潮を浴びせられ続けて殉教する。モキチは磔になったままで溺れながら賛美歌を口ずさみ、死ぬまでに4日を要した。その一部始終を見ていたロドリゴは激しく動揺し、神はなぜ黙って見ておられるのか、という思いを抱き始める。

 再び五島に渡ったロドリゴは、以前訪れてミサを行った村が焼き払われ、無人になっているのを見る。そこにキチジローが現れるが、川の水を飲もうとして役人に捕らえられる。キチジローが銀300枚で役人にロドリゴを売ったのだ。
 捕らえられたロドリゴは長崎で、奉行の井上筑後守の尋問を受ける。そして牢屋に入れられ、筑後守との論争と、目の前で処刑されるキリシタンの村人たちの姿に、徐々に絶望を深めてゆく。そして、離ればなれになっていたガルペが信徒とともに捕らえられ、ロドリゴの目の前で簀巻きにされた信徒が海に投げ込まれたとき、彼は通辞から教えられた「転べ」「転べ」という言葉を叫んでいた。

 やがて、ロドリゴは棄教したフェレイラと対面し、日本は沼地で種を蒔いても芽は出ない、芽が出ても育たない、と諭される。そして彼自身が受けた穴吊りという恐るべき拷問についてロドリゴに語る。やがて彼は、他の信徒が穴吊りにされ、おまえがキリスト教を捨てて転ばなければ彼らが苦しむのだ、と脅される中、沈黙している神に答えを求める。

 このクライマックスに至るまでに、重要な役割を果たすのがキチジローである。振り返ってみると、「あっ」と思った場面がロドリゴの心理面の転機になっているように思った。それは、五島に渡ってみると潜伏キリシタンの村が荒廃していた、という場面。荒れ果てた村の片隅に、消えたばかりの火の跡を見つける。それで、聖書の一場面を思い出したのだ。捕らえられて裁判にかけられるイエスを見届けようとした弟子のペテロは、「おまえはイエスと一緒にいただろう」と問われて3度「そんなヤツは知らない」と答え、裏切ってしまう。十字架につけられ、死んで墓に葬られ、三日後によみがえったイエスは、元の漁師にもどって働いていたペテロを、湖の畔で待っていた。そのときイエスは、火を立てて魚を焼き、ペテロとともに食事をした。イエスを見捨てて逃げ去ったペテロを、イエスが赦すというエピソードである。

 五島でキチジローも火をおこし、魚を焼いてロドリコに食べさせた。この場面は聖書のこのエピソードを思い起こさせるように作られていると思ったのだ。ロドリゴはキチジローに従っていき、捕縛されてしまう。捕まるたびに踏み絵を踏み、そのあと「罪を犯しました」とロドリゴに告解に来るキチジロー。役人からも呆れられ、しまいにはロドリゴさえ「またか」という表情を見せるようになる。しかしそんな表に現れた立場とは逆に、ロドリゴがキチジローに従うようになっていったのではないか。彼の、その「罪を犯しても、赦してもらえばそれでいいんだ」という開き直った生き方に。

 そして、沈黙の中で神の声を聞くロドリゴ。彼が聞いたのは、本当に神の声だったのだろうか。彼は自分が責められる前、すでにガルペに「転べ、転べ」と叫んでいる。そんな彼に、「踏むがいい」という言葉以外の言葉が聞こえただろうか。何より、その声を聞いたときに浮かんだイエスとおぼしき人の顔は、キチジローにそっくりだったではないか。

 映画はそのあと、オランダ人船長が語る後日談として、棄教後のロドリゴの人生が描かれる。これは、スコセッシが付け加えた部分だが、私には、少々きれいに終わらせすぎな気がした。死んで葬られるロドリコの手の中の小さな十字架。彼は「形だけは」棄教したが、心の中では信仰を持ち続けた、ということなのだろう。しかしそれは、その十字架を手渡したイチゾウの思いを継ぐものだっただろうか。イエスはペテロと湖の畔で食事をしたあと、「私の羊を飼いなさい」と言った。ロドリゴはキチジローにならって自分の弱さを受容し、キリストを捨てて生き延びた。それは、穴吊りの信徒を一時的には助けたかもしれないが、日本に植えられた信仰を根絶やしにしようとする幕府に加勢した。「よい羊飼いは、羊のために命を捨てる」。フェレイラを助ける、というために来たロドリゴには、このみことばは語られなかったのであろう。イチゾウとモキチは命を捨てた。彼らはトモギ村のよい羊飼いであった、という思いが最後に去来した。

 ただ、もう少し普遍的に考えてみると、いじめ、弾圧、迫害などからくる恐れによって、自分の内に信仰や良心を封じこめてしまった人に対して、これは慰めとなる話かもしれないと思う。それを自由に表現できなかったり、自分らしく出せなかったりする人の内に秘めた思い、その沈黙を主は見てくださる。最後に<日本の信徒と司牧者のためにこの映画を捧げる>とあった。沈黙の内に信仰を秘めている人に寄り添い、殻を打ち破って出ていくための働きを、私たちは担っているという励ましを受け取った。

 162分の長さを感じさせないのは映像、脚本、演技のすべてを通して見る者をその世界に引き込んでいったからだろう。この作品には音楽がほとんどなく、自然の音がテーマ曲のようになっている。その静けさが世界観を引き立たせると同時に、登場する様々な立場の人物の「誰か」にスポットをあてて絶対化することなく、相対化して見せることに成功していると思う。その中であなたは、誰の言葉、誰の行いに目が留っただろうか。沈黙の中に、誰の声を聞いただろうか。

評点 ★★★★★

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