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An another tale of Z (review)

宇宙戦艦ヤマト2199 「星巡る方舟」





あらすじ

 ついにイスカンダルに到着し、コスモリバースシステムを受領したヤマトは一路地球に急ぐ、が、ガミラス軍崩壊の混乱に乗じて大マゼラン雲に侵入したガトランティス帝国の艦隊がヤマトの行手を塞ぎ、超兵器・火炎直撃砲の攻撃を受けたヤマトは緊急ワープして謎の星のある異空間に迷い込む。上陸した星のジャングルにヤマトの原型となった艦「戦艦大和」を発見した古代たちは、そこで先の戦いで戦死したはずのバーガー少佐らドメル艦隊残党グループに出会う。共に大和に閉じ込められ、当座の脱出は不可能と悟って共同生活を始める古代とバーガーたち。一方、ヤマトを追って謎の空間に侵入したガトランティス艦隊は惑星シャンブロウに到達し、これぞ彼らが探し求めていた宝の星として、シャンブロウに漂着したヤマトとガミラス艦隊に猛攻を仕掛けるのだった。


コメント

 筆者は総じて宇宙戦艦ヤマト2199の作風に批判的だが、案に相違して2199(以下本編)の中では本作がいちばんの良作である。惑星シャンブロウのジャングルで発見された戦艦大和の残骸を大戦中の同艦の仇名であった「大和ホテル」と掛け、大和の時代である昭和初期ホテル風の建物で古代らとガミラス人が密室劇を繰り広げるというのは、本編では14話「魔女はささやく」で試みられた手法であり、続編として用いても違和感のないものであった。あくまでも「宇宙戦艦ヤマト」の続編ではなく、「ヤマト2199」の続編としてであるが。

 艦隊戦も冒頭のバンデベル艦隊の壊滅からヤマト追撃、ラストのガトランティス艦隊との決戦までの描写も精緻で迫力のあるもので、これらの描写のテンポ良い様子は本編18話「昏き光を超えて」の艦隊戦よりも秀でており、宇宙空間に無理に造波紋を形成するような本編20話「七色の陽の下に」のようなわざとらしさもない。もちろん、戦いの途中でヤマト近傍に潜宙艦が浮上して破壊工作するような白ける場面もない。ヤマトも火炎直撃砲や宇宙生物相手にちゃんと逃げているので、戦いは2199の戦いでは常々感じていた「無理筋」ではなく、むしろ原作の「宇宙戦艦ヤマト」に近いスリルを感じさせるものになっている。

 実は2199本編では、どんな戦いでも艦長沖田が「死中に活」と突撃ばかりしていたので、敵を目前に逃亡するヤマトというのは2199では本作が最初(でおそらく最後)である。しかし、2199準拠のこの世界で「エネルギーを吸収する宇宙生物」を出して良いというのなら、どうしてバラノドンを本編で出さなかったのだろうか。作品の流れとしては良好でも、面白いが故に、リメイクしたはずの本編のこじつけと破綻が露わになっているのも本作が一部ファンに評判の悪い理由かもしれない。ラストのロケットアンカーの描写も、これは原作ヤマト13話とほとんど同じなので、設定等リアリティを顧慮したはずの2199でこれでは、本編でもデスラー機雷やシュルツ艦隊の突撃をやればよかったじゃないかと言いたくなる。本作はいくつかの点で2199本編に対するアンチ・テーゼを提示しており、制作者が本編とは異なる作品観を持っていることを感じさせる。



 大和艦内でのバーガーらとの邂逅も、実は古代らの見ている情景はこれも14話で登場のジレル人―――精神を操る能力を持つ、が投影した幻影で、ジレル人は敵対する地球人とガミラス人をいがみ合わせ自滅させようとしていた。が、幻影に翻弄されつつ、徐々に歩み寄り、ついには友情を育む古代とバーガーの姿は物別れになった20話のカタルシスである。ここで制作者が「主人公は古代」という視点を見失うことがなかったことは、戦艦大和やホテルは「宇宙戦艦」の舞台としては奇妙なものの、ドラマを見やすいものにしている。そして筋立てや人間描写は、いちいち下劣で癇に障った本編の出来が嘘のような普通さ、ケレン味のなさである。

 唯一点、このドラマで苦言を呈したいところは、いわゆるヲタク少女、古代らとともに大和に乗り込んだ真田の部下、桐生美影の存在のウザさであろうか。23世紀の美少女が200年も前の戦艦のスペックをスラスラ言えるのはおかしいし、それが美少女というのはもっとウンザリする。アキバ系にしか受信回路の無いこういうキャラは作品の品位を落としているが、本編の2199それ自体がそういう品性全開の作品であった。それに舞台となった戦艦大和もこういう場面で適切なオブジェかどうかは疑問がある。実物の大和はプラモではなく、三千人余の乗組員を道連れに海底に沈んだ悲劇の戦艦だからだ。ジレル人が桐生の意識を投影したにしても、古城とか謎の遺跡とかの方が普通だし、それで問題があったようにも思われない。これも本編同様、無理やり持ち込んだヲタク要素が作品の汚点となっているが、その種の悪影響は2199諸作品の中では本作が最小である。なお、桐生つながりでは作品冒頭の空間騎兵隊全滅の場面(隊長が桐生の父親)も必要ない。



 総じて見れば、「星巡る方舟」は2199があってこそ成り立つ作品であるが、作品自体は2199よりはるかに上質である。が、作品それ自体として価値を問える作品かと言えば、先に挙げた美少女桐生など本編譲りの視聴者に媚びる要素が目に付き、作品それ自体の視線は決して高いとは言えない。しょせんは二次創作でしかなく、作品もそのレヴェルを超えてはいない。本作を理解するには2199本編を見なければならず、二次創作の証拠として単独作では理解できない作品である。そして、その2199を私は全く認めないのだから、本作は良作ではあるが、それだけでは筆者をもってしても、人に積極的に勧める理由も方法もないとなる。

 この映画の制作者はさぞ複雑な気持ちであろう。本編より優れた作品を作りながら、その本編の出来が(極めて)悪いために、この作品のみを積極的に推すことができないというジレンマがある。そこで感じる葛藤は、実は筆者が自分自身の作った作品で感じていたそれと同じものである。しかし彼らは30年離れた作品を相手にしていた筆者と異なり、本編の制作者そのものだったのだから、その後悔の質は異なるものであるはずである。悔やまれるのは、リメイクした2199本編をどうしてヲタク向けの低俗作品ではなく、名作と呼ばれた「宇宙戦艦ヤマト」の後継作としてふさわしい質の高い作品として作らなかったのかという後悔である。