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 聖書を読もう! ルカによる福音書4章  →全文

 「故郷ナザレで叩かれるイエス」(4章14節〜30節)

「この人はヨセフの子じゃないか」

 悪魔の試みを終えたイエスはガリラヤに戻ると、いよいよ宣教活動をスタートします。ユダヤ人は、安息日(土曜日)ごとに会堂に集まって礼拝していました。イエスもまず、諸会堂をまわって教えられ、多くの人から尊敬されるようになります。

 そんなある日、イエスは故郷の町ナザレを訪れ、いつものように会堂にはいって、聖書を朗読されました。当時のユダヤ人の礼拝は、聖書の朗読が中心でした。イエスにイザヤの書(旧約聖書の「イザヤ書」という預言の書)が渡されたので、イエスはその中から開いた箇所を朗読されます。ルカ4:18〜19の箇所ですが、それは「イザヤ書61章1節〜2節」に該当します。


主なる神の霊がわたしに臨んだ。
これは主がわたしに油を注いで、
貧しい者に福音を宣べ伝えることをゆだね、
わたしをつかわして心のいためる者をいやし、
捕われ人に放免を告げ、
縛られている者に解放を告げ、
主の恵みの年と
われわれの神の報復の日とを告げさせ、
また、すべての悲しむ者を慰め、

現在のナザレ市街。アラブ人クリスチャンが多く住む。

 

 これを書いたのは、紀元前742年頃からおよそ50年にわたって活動した、イスラエルの預言者イザヤです。イエスが登場するおよそ700年前に、そのことを神から聞いて預言していたんですね。それは、メシア(救世主)であるキリストが現われたとき、人々が「この人こそそうだ」とわかるようにするためです。

 しかし、ある人は言いました。
「この人はヨセフの子ではないか」。
 この言葉、決して好意的な言葉ではないですよね。「大工の倅のくせして、何言ってるんだ」なんていうニュアンスがあるんじゃないでしょうか。それを受けて、イエスは言われました。


「それから言われた、『よく言っておく、預言者は、自分の郷里では歓迎されないものである。よく聞いておきなさい。エリヤの時代に、3年6か月にわたって天が閉じ、イスラエル全土に大ききんがあった際、そこには多くのやもめがいたのに、エリヤはそのうちのだれにもつかわされずに、シドンのサレプタにいるひとりのやもめにだけつかわされた。また預言者エリシャの時代に、イスラエルには重い皮膚病にかかった多くの人がいたのに、ただシリヤのナアマンだけがきよめられた』」(ルカ4:24〜27)

 イエスは、エリヤ、エリシャというユダヤ人たちが聖書によってよく知っている二人の預言者の名前を挙げ、彼らがこの預言者の警告を受け入れなかったために、ユダヤ人ではない異邦人のところだけで奇跡を行ったことを例に挙げて話しました。(シドンのサプレタにいるやもめの話は旧約聖書の列王紀上17章に、シリヤのナアマンの話は列王紀下15章にあります)


過去の罪を指摘するイエスに憤慨したナザレの人々

 さて、これを聞いた会堂の会衆たちは憤慨し、立ち上がってイエスを町の外に追い出してしまいました。よほど、言われたことに腹を立てたのでしょう。イエスは、エリヤ、エリシャの二人の預言者の話を通して、ユダヤ人はこれまでの歴史の歩みの中で、預言者を通して語られた神の声に耳を傾けず、それゆえ「ききんの中で食物を与えられる」「重い皮膚病がいやされる」といった神の恵みを受け取ることができなかったことを指摘しました。

 当初、イエスの教えに感嘆しイエスを歓迎した人々は、イエスの指摘が図星で、しかもあまりに厳しいものだったので、かえってイエスを憎むようになりました。「同郷のよしみ」みたいなものを裏切られた気持ちになったのかもしれませんね。
 しかし、イエスに先立って宣教活動をはじめたバプテスマのヨハネは「悔い改めなさい」と告げていました。悔い改めとはギリシャ語で「メタノエオ」、これは「向きを変える」「考えを変える」「方向転換」という意味です。イエスは故郷の人々に、いままで自分たちが預言者にどのような態度を取ってきたかを思い出させ、考え方を改めるように導いたのですが、彼らは、それを受け入れず、イエスを町から叩き出したのです。

(つづく)

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