機動戦士ガンダムF91 MOBILE SUIT GUNDAM F91

F91 1991年春劇場公開

原作・監督富野由悠季
原案矢立肇 音楽門倉聡
主題歌森口博子「ETERNAL WIND」
キャラクターデザイン安彦良和
モビルスーツデザイン大河原邦男
美術池田繁美
脚本伊東恒久・富野由悠季

スト−リ−

 宇宙世紀123年、スペースコロニー「フロンティア4」の隔壁が突如破られ、モビルスーツ部隊が侵入してきた。ちょうどその日は高校の学園祭で、メインイベントの「ミス・カントリーサイド」を選ぶコンテストが開かれていた。セシリー・フェアチャイルドはコスチュームが気に入らないと出場を渋っていたが、同級生のシーブック・アノーに引っ張られ、半ば無理矢理ステージに上げられた末、見事クイーンに選出された。そのとき、ふとセシリーは耳鳴りのような音を感じる。と突然目前にモビルスーツが出現した。連邦軍がナゾの軍隊と交戦を始めたのだ。戦場と化す市街地から、シーブックたちは必死で逃げまどい、博物館から持ち出したガンタンクで防戦しながらコロニーの脱出口へと向かう。一緒に避難しようとしていたセシリーは、なぜか父親に引き留められる。そこに敵のモビルスーツが降下してきてハッチが開いた。現れた男はドレル・ロナ。彼は「ロナ家にあなたが必要になった」という。ナゾの軍隊は、セシリーの母親の実家ロナ家率いる、クロスボーン・バンガードだったのだ。セシリーはやむなく兄ドレルに従って「里帰り」を果たす。
 一方なんとかフロンティア4から脱出したシーブックたちは、フロンティア1にいた連邦の戦艦「スペース・アーク」に避難するが、この船は練習艦で残されたクルーも素人同然の者ばかり。シーブックは母親がサナリィのモビルスーツ開発担当者であることもあって、「ガンダムF91」と名付けられた新型モビルスーツに搭乗し、戦場に出ることになるが---------。

物語の背景

 この作品の舞台となっているのは、シャアとアムロとの最後の対決となった「逆襲のシャア」から30年後の世界です。ジオン対連邦という一連の戦いはすでに過去のものとなっており、地球圏は広く地球連邦の体制下にあるようです。しかし、かつてあれほど変革を求めて人々が戦ってきたにもかかわらず、地球連邦政府の官僚主義体質にはまったく変化がみられないようです。この物語は、そういう意味で「リセットされた」歴史といってもいいのかもしれません。
 戦いは、クロスボーン・バンガードという軍隊によって引き起こされました。彼らは「コスモ貴族主義」をとなえてコロニー国家「コスモ・バビロニア」建国をもくろむ勢力です。総帥はセシリーの祖父、マイッツァー・ロナです。
 コスモ貴族主義については、物語のなかで、祖父がセシリーに語って聞かせるシーンで説明されています。
 ここで簡単に紹介すると、次のようなものです。「政治は、自らの血を流すことを恐れない高貴な者によって司られるべきだ」。これはノーブル・オブリゲーションという考え方で、近代以前のヨーロッパの支配体制を支えるものでした。つまり、貴族という特権階級には、高貴なる義務がある、それが戦争に参加するということだ、という意味です。義務と権利は表裏の関係で、ゆえに民の上にたって支配する権利が生じるということで、自らの特権を説明しています。逆にいうと、戦争は貴族同士が行うもので、一般民は参戦の義務はなかったということです。(ちなみに、日本の貴族にはこうした高貴な自己犠牲という考え方はありません。彼らはもっぱら権謀術数に明け暮れ、武力抗争といういわば「手を汚す」仕事を専門にする階級として「武士」が誕生しました。武士階級は最初貴族対貴族の抗争の「道具」となって戦っていましたが、やがてその強大な軍事力を背景に、貴族階級を圧倒し政治力を高めていくことになります。サムライというと日本文化の象徴として、いまだに海外から畏敬の念をもって見られることがありますが、打ち首、切腹、討ち死になど武士特有の野蛮行為の背景に「ノーブル・オブリゲーション」=高貴なる義務が感じられるからかもしれません)。こうした考えを打破したのが、ナポレオンです。フランス革命後に政権を握ったナポレオンは、祖国フランスの危機に際してはじめて、一般市民を徴兵した国民軍を創設しました。このとき市民は「自分たちの力で祖国を守ろう」と進んで戦争に参加したそうです。これが現在までつづく徴兵制の起源ともいえます。つまり、貴族という特権階級を革命により解消したために、彼らが担っていた「高貴なる義務」である戦争もまた、市民が担うことになったということです。シャア・アズナブルが士官学校を出て将校となったのも、アムロ・レイが現地徴用兵として戦争に巻き込まれる羽目になったのも、こうした歴史的な流れの延長線上にあるとみてよいでしょう。
 そうした意味で、この「コスモ貴族主義」というのは、先の作品で語られた「宇宙移民者の独立」という敵側の主義主張からくらべると相当に懐古的です。私たちは、このような古い考えを打破して築かれた、今の民主主義の世界に生きています。それに対して、身にあまるほどの自由に振り回されて、危険にさらされながら生きるより、ちょっと自由を奪われてもいいから世の中のことは「高貴な人々」に任せて、平和に気楽に生きてみたらどうか?と、揺さぶりをかけられているのかもしれません。

レビュー

 私はこの作品を、レンタルビデオで見たのですが、正直いって見ている間にしょっちゅうテープを止めて、なんやかやと用事をしていました。どうも、あまり映画に引きつけられなかったようです。
 原因はふたつあります。ひとつは「主役」であるガンダムが出るまでがかなり長いこと。どこのだれかもわからない軍隊に攻撃されて逃げまどうさまは、状況としてはおもしろいのですが、ターミネーターのように執拗につけ狙われているわけでもないから、次第に退屈してきてしまいました。
 もうひとつは、映画という限られた時間のなかに、あまりに多くの要素がつめこまれすぎていること。新しいガンダム世界の構築ということで、非常に世界観を練り上げられたと思うのですが、そういう大河ドラマ的なものを映画で一気に見せるのには、やはり少々無理があったような気がします。見ていて、何がこの物語のメインなのかが、よくわからないのです。「8かけ開いて吊り橋になる」という暗号をリィズが解くところとか、アンナマリーの裏切りなど、興味深いエピソードが次々に語られるのですが、では本流は何かというと、どうも心許なくなってきます。私はやはり、これはシーブックとセシリーという二人が戦いによって引き裂かれ、ふたたび出会うという物語がメインだろうなとは思うのですが(多分、人によって見方はいろいろあると思う)、そのわりには、お互いのことをどう思っているのか、それがどのような気持ちに変わったか、などというところが意外にあっさりと流されていて、ラストシーンにもそれほど盛り上がれませんでした。
 主人公のシーブックは、アムロやカミーユのような内向的・自己否定的な暗さがなく、前向きな性格でなかなか好感がもてました。しかしそれゆえに、いきなりガンダムに飛び乗るような激情が発揮できず、だらだらと中盤にさしかかろうとするまでガンダムに乗らずに逃げ回ってしまう結果になったともいえます。この作品では、これまでの作品にあった「父性なき父への怒りを戦争にぶつける」という主人公の心理が大きく変化して新機軸を打ち出そうとしています。しかしそれが何なのか、はっきりしないままに話が終わってしまいました。それは、これまでのような「親子関係のゆがみ」的なパーソナルなものでなく、「コスモ貴族主義」というクロスボーン・バンガードの主義主張に対する「反論」であり「反乱」だろうと推測します。もしそうだとするなら、物語の展開としては、最初から逃げ回るよりもさっさと占領下の平和体制におかれ、そこで新国家コスモバビロニアの支配に異を唱える形で、市民による「反乱軍」が結成され、接収されていたガンダムを奪う、などして戦う---というふうにした方が、主人公の姿勢がはっきりしてよかったと思うのですが。
 こういう展開にすると、いろいろ説明されないナゾも残るでしょうが、その部分は「第二部」「第三部」といった続編になり得ると思います。そうすれば、「スターウォーズ」的なシリーズとして、長く愛される作品になっただろうし、そういう仕掛けが本作に盛り込まれていただけに、この作品が「This is only the Beginning」=これはほんの始まりにすぎない、と締めくくられながら結局後が続かなかったことが残念でなりません。 (2000.7.10)

評点 ★★★


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