参考掲示板 フラガ評論集作品第1話 (発言17以下未掲載分)
※斜線発言は上記掲示板の該当部分
[17]80年代の夢、2010年の夢投稿者:フラガ投稿日:2009年12月26日(土)
だいたい私と作者の小林さんはほぼ同年代ですが、掲示板なんかではバカにされている「いい歳をしたヲタク中年」と呼ばれる世代ですね。「Zガンダム」高校時代の話題になりました。「ファースト」私もガンプラ組み立てました。「ゾック」とかでしたけどね。「Zガンダム」の最後で流れていく百式を見て、次の「ZZガンダム」ではシャアが復活するに違いない、それはそのはずと思ってテレビにかじりついていた世代です。
本当のことを言うと、私は今のティーンやハイティーンの方々がこの当時のアニメをDVDなんかで見て「名作と思う」とか「好きになる」心境が分かるような気がします。掲示板なんかの意見をたまに見ますと、大きな大人も少なくないようですが、ティーンの方もいますよね。確かに、今見てみると「逆シャア」なんかは良くできたアニメだと思います。最近になってできた「ガンダムSEED」とか「ガンダム00」のコンピュータ作画に見慣れた目には(あれはあれですごいと思いますが)、あの当時のアニメは絵もそんなに悪くない上に、ダブルオーなどには無い、「何か血の通った」ような暖かさを感じます。まじめさもひたむきさも当時の作品の方が今よりも上です。それらが何もかもが数値化され、努力だけでは越えられない「壁」に向かい合って絶望している今の若い方には逆に新鮮なのかもしれません。「逆シャア」も「Zガンダム」もそういう見方なら決して悪い作品じゃなかった、そう言ってくれる若い世代の声は実は我々の励みにもなります。
でも、我々は知っているんです、本当はもっとすごいことができたということを。
最初の作品を作った時のクリエーター、私は1980年代で基本的な「アニメ」のノウハウは完成したと思いますが、当時は若く、熱い志を持ち、スタジオの隅でビール缶を片手に社会的不公正や不正義に怪気炎を挙げていた人たちも、作品がヒットし、社会的に裕福になるとずいぶん変わってしまいました。スポンサーの都合で仕事を切られる理不尽に怒り狂っていた彼らは、いつしか些細な理由で若いクリエイターを解雇する冷酷な管理職に変わっていきました。1980年代が頂点だったので、その後の彼らの放つ作品が決して評価が高かったとも興行的に成功だったとも言えません。でも、それ以前との違いは彼らが失敗の責任を他人のせいにできたことです。失敗の数は多かったので、いつしか社会正義に怒りを持っていた若い青年は、自己弁護と責任転嫁に汲々とする疲れた中年に変わっていきました。
我々は目撃していたんです。理想を語る人間が、作品を通じ堕落し、続く世代を育てなかったという冷酷無残な事実を。
この作者の方が以前に指摘していましたが、「ガンダム」は典型的な作品だったそうです。アニメーションの技術は「Zガンダム」が頂点で、後は進歩したのは機材だけで、演出や殺陣、脚本の技術は低下する一途だったと。「逆襲のシャア」悪い映画ではありませんが、以前の作品と比べると絵に精気がありません。モビルスーツの見せ方も迫力に欠けます。そして何より、シャアことクワトロ大尉が反乱を起こす理由が全然分かりません。作品を並べるだけで、これは分かってしまいます。
もし、こんなロスが無かったらどうだろう。作者はきちんと説明していないようですが、たぶん、これがこの作品を成立させた大きな動機の一つです。作品のスケールは大きいです。構成も緻密で、時には社会性あるテーマさえ語っています。これはその技術があるなら、それに相応しい物語をというコンセプトで練られた作品です。そして、あの時代の冷酷な人物が、一夜の思いつきで考え出したような続編の屁理屈を、この作品はことごとく破ってしまいます。「ジオン公国」が存続していることなど好例ですね。1970年の物語を元に、現代流の解釈を加え、物語の可能性を極限まで追求した作品、これがこの作品の正体です。
物語に分かりやすいテーマや予定調和が必要だという作劇上の理由については、作者はあまり考慮しているようには見えません。それでも、この物語の進行は読者の考え方を変えるだけの力を持っています。美辞麗句だけを並べた「可能性の物語」ではなく、読者に世界の見方、未来の見方を示しています。「可能性」は示されるものではなく、読者自身の手で掴むもの、そのための道具は提供した、後は任せたという作者の声が行間から聞こえてきます。
私もこの作品を読むのは久しぶりですが、本当に楽しくレビューさせていただきました。まだ初めの話、1〜6話までしか掲示されていませんが、改訂が進むにつれ、最初にこの作品を読んだときの私の感動が間違いではなかったことを実感としてつくづく感じています。
[19]作者コメント(キャラクター1)投稿者:小林 昭人投稿日:2009年12月27日(日)
この作品読んでいわゆる「前後編」を期待する人がいちばんズッコケるのは原作諸作品のキャラの扱いじゃないかと思います。ある意味「全然違いますから」。でも、書いた私は富野喜幸さんの描くどのハマーンより、こちらのハマーンの方が「らしい」と思いますよ。ちょっとこの概念、私も長年説明に窮していたのですが、一旦連載を休止した折、私は休載期間中にバイクの免許を取りました。当然、いろいろな車種を物色したのですが、イタリア車を取り扱っているある会社のHPにベスパ社社長のインタビューがあって、そこの言葉を読んで「これだ」と思いました。以下引用すると、彼はこんなことを言っていました。
「しかしです、こういう言い方をして失礼かもしれないが、どうぞ怒らないでいただきたい。イタリア人の私から見ると、日本のバイクはなぜか「冷たい」感じがするのです(ベスパ)。」
良く読むとベスパ社じゃなくて、ペスパを作っている会社の副社長さんのようですね。
「誤解しないでいただきたいのは、デザインが悪いと言っているのではないのです。むしろとてもキレイにできています。この辺は感覚の問題なのでしょうが、日本のバイクを見た時に「絶対に欲しい」とか、「カッと熱くなる」、そういうパッションを感じないのです(ベスパ)。」
「デザインはマネできても・・・」
「そう、アニマ(精神の意)はコピーできにくい、ということですね(ベスパ)。」
何となく、上の引用だけでも言わんとしている意味は分かるんじゃないかと思います。でも、説明はとても難しい。実は創作者でも分からないんじゃないかと思います。ハマーンのデザインは当時20代の北爪弘幸氏ですが、彼がその後書いた前日談「CDA・・若き彗星の肖像」のハマーンってタダの美少女で全然魅力無いですもの。同じことは富野喜幸氏の作風を一生懸命コピーしていた「ガンダムUC」にも言えますね。
私は翻訳家ではありませんが、「翻訳というのは自国語のセンスだ」という話は聞いたことがあります。考えてみれば、昔の翻訳にはありましたね「夜店のバナナの叩き売りだ」とか「弘法も筆の誤り」とか、いやこれはどう見ても原語表現には無いだろう的な訳ってありますが、ちゃんと意味は通っていますし、むしろ全体としてみれば原著さえ越え、格調高くさえあるという場合さえある。訳者が、原著者の発するアニマをちゃんと見てればそういう訳ができるんですよね。北爪弘幸氏はデザイナーとしては優秀だと思いますが、アニマを見るのに長けた人とは言えませんでした。それにデザインっていうのはいくつも原案出して、それにカントクが「まるっ(○)」てやって承認するのですから、ハマーンのアニマを見抜いたのは書いた彼ではなく富野喜幸氏です。
続きは後ほど、、
[20]作者コメント(キャラクター2)投稿者:小林 昭人投稿日:2009年12月27日(日)
おそらく数多くあっただろう原案の中からハマーンのイラストを選んだ富野さんのセンスは慧眼だと思いますが、私も自分で作品を書いてみて思うこととして、「見出す」ということと「表現する」ことは別物なんですよね。プロ野球のプロモーターが必ずしも監督でないことと同じ理由。で、結構「良い素材」は揃っていた「Zガンダム」なんですが、その使われようは必ずしもそのキャラの持つ「アニマ」に忠実であったとは言えなかった。むしろ、良い素質を持っていたキャラが無造作に使い捨てにされたというのが印象ではないでしょうか。
例えば「マウアー・ファラオ」というキャラがいますが、彼女の登場シーンはZガンダムの中でも白眉だと思います。核爆弾を仕掛けられ、俺が俺がと脱出するジェリドの手を取る緑髪をなびかせた平服の女性。周り軍人でしたから違和感ありましたし、その阿鼻叫喚の光景で一人平静な佇まいは一種異様なものさえありました。しかし、このギャップが良かったんです。おそらく何も知らない人が見れば、イデオンのカララ・アジバ級の物語の鍵を握る女性に見えたに相違ありません。現に私もそう思った。
しかし、良く名前見て欲しいんですよね、「マウアー」というのはドイツ語で「壁」という意味なんです。「ベルリナー・マウアー(ベアリーン・マウエ)」というのは「ベルリンの壁」という意味で、あの当時「壁」はまだ健在でしたが、飯門店同様物好きの観光スポットにはなっていました。思うに、命名の元はこれでしょう。つまり、彼女はシックでミステリアスな登場シーンにも関わらず、最初から「ジェリドを庇って死ぬ女性」という考えで設定された人ですし、現に後の進行もそうなりました。
ハマーンの場合は「ハマーン・カーン」という名前が当時の米国の政治学者「ハーマン・カーン」から来ているというのは有名な話ですが、このエピソードにもある通り、これがマウアー以上に思い入れを持って設定されたキャラとは思えません。名前にこだわり無いんですよね。私も自分の作品で「アマルティア・セン」という名前の提督を出していますが、これも同名のインドの政治学者から取ったもの、私が国際政治学を教わった時には教授が「アマーティア・セン」と呼んでいた。だから少し読み方をラテン風に変えたのですが、今では本家もこちらで呼ばれていますね。いずれにせよ、作った時には「数ある登場人物の一人」で、そんなに強敵だとかこだわっていたという感じじゃなかったです。
ところが、ドラマを進行させると、キャラが当初の目論見とは違う動きをすることがある。結構思い入れのあったマウアーは呆気なく死んでしまい、同じ声優で安直ネーミングのハマーンは生き延び彼女を主役にした続編まで作られるありさま。私の方も脇役の一人だったはずのセンは最終話付近では主役達に立ちはだかるもっとも強大で魅力的な敵の一人になってしまった。後になってくると、私の方もこのキャラを評価していて、本来出す予定の無かった彼の叔父とか父親とか、巧妙な戦術とかの設定を考えている有様。これは富野ハマーンも同じだったんじゃないかと思います。安直ネームのハマーンにはいつの間にかマハラジャという親や姉妹までできている始末。何でこうなってしまったんでしょう?
[19]宇宙世紀の司馬遼太郎?投稿者:利通投稿日:2009年12月26日(土)
フラガさんの文をリスペクトして、利通です。
これ(司馬)って「公式百科辞典」の皆川ゆか(♂)さんが自称していたフレーズだと思いますが、私は皆川さんよりも小林さんの方がずっと「司馬っぽい」と思いますね。百科辞典に構成力必要無いこともある。
思っている以上に、影響を与えてきた作品だと思います。私がそれ感じたのは、この作品が完成して「Zガンダム」の映画を見に行った時(実は映画Tあたりはダブっていて、U、Vは終わった後)、Tのエンドは割と普通だったと思うのですよ。物語の内容に合っていた。Zガンダムって基本的に月くらいまでの物語でしたからね。しかし、U、Vになると外れっぷりがだんだん外道になっていった。どう見ても話の内容と合ってない。ガンダム冥王星まで行きませんし(U)、Vみたいに銀河の果てなんか行きません。Uくらいでしょうか、ハタと気付いたんですよね。実は知っているのでは、と。
”An another tale of Z”の世界は初版では海王星まで行きました。主戦場になったのは土星までですが、冥王星までなら「行ける話」と書かれていますし、この作品の前史である前宇宙世紀の人類の進出半径は1光年と書かれています。つまり、この映画をやっていた時、エンディングのような空間でバシバシ宇宙戦争やっていた作品って、この作品しかなかったんですよね。宇宙戦艦ヤマトが太陽系を出ていったのは今年の話ですから。実は20数年間、アニメの世界では人類は太陽系を出ていなかった。
ここで気付いた、「あ、知ってるな」と、
たぶん、クリエイターとしての「彼」はご自分が血の惨劇だのエログロレイプだのフェラリオ串刺しだのの暗い情欲を小説に綴っていた間に、より合理的に書かれた作品が、皮肉にも「自分の出世作をベースにして」、遥かに広大で堅牢な物語を書き上げていたということに我慢ならなかったのかもしれません。Vのエンドに至っては、Gacktの曲に合わせて、この作品の世界ですら遥かに越えています(銀河の彼方ですから)。構成で勝てないならせめてエンディングだけでも、同じ「Zガンダム」を素材にして「完全に負けた」元作者の悲哀が映画館のスクリーンからもひしと伝わってきました。でも、私の見るところ、この勝負は小林さんの勝ちです。その1年後に「ガンダムUC」という作品が出てきました。
皆川さんが「宇宙世紀の司馬〜」と評価されているかは別として、作品の創造から見守ってきた私としては、この作品はやっぱり司馬の作品に良く似ています。生前の司馬遼太郎も、良く売れてはいたものの、面と向かって誉める人はいない作家でした。その物語はある意味普遍的すぎて、歴史解釈は新事実の発見により覆される例も出てきているようですが、それでも、個々の作品に示された彼の見方の驚くべき常識性、安定性は異論が奇怪に見えるような安全性の高いものでした。「坂の上の雲」という作品では、放映時に新事実の発見により、日清戦争時の日本兵の暴行が10分も掛けてクローズアップされましたが、執筆時の司馬がこの事実の存在を全く考慮しなかったとは考えられません。どんなに廉潔な将軍に率いられた軍隊でも、掠奪暴行を全く起こさないということはあり得ないからです。
総じて見て、当時の日本の軍隊は廉潔性の高い軍隊だったのであり、司馬はその90%の真実を文字にしたためています。その視線の前には、たかだか5%か10%の「新事実」を振りかざして映像化するNHKディレクターの視線はいかにも軽薄で安っぽいものに見えます。これは西部劇の南部連合兵士の扱いに似てますね。あれはジョン・ウェインの映画では掠奪暴行をことにする悪人なのですが、南部でもリー将軍が出てくると沈静化します。悪人兵士は途端に礼儀正しくなり、婦人をエスコートし、将校も北軍の同期の友を思いやる紳士的な南部連合に変わってしまいます。たぶん、どちらも真実なのでしょう。必要に応じ、どちらの像を選択するかはバランスの問題です。そのバランス感覚が司馬は極めて優れていた。それがあまりに常識的であったために、彼の生前には人々は彼の作品を引き合いに出すことを憚ったわけです。
実は半年前、小林さんは私に相談して、作品の掲載を一旦止めようと言い出しました。作品も5年間掲示してファイルも痛んでおり、大量の絵を用いたので修繕に相当の手間が掛かりそうだったこと、それと「ガンダムUC」のシンパによるイヤガラセが多発していたことが原因でした。私も実はもう良いんじゃないかと思ったので、その時は賛成しましたが、実際に下げられてみると、やっぱりこれはこの分野のライトハウスだったんじゃないかと思いました。名前は挙げませんが、やはり同じような作品や著作物を扱っているいくつかのサイトが「糸の切れた凧」のような状態になってしまった。サイトを閉めたり、小説を降ろしたり、いくつかあったと思います。1年前の討論会に参加したメンバーの方からも「せめて文字だけ」という声もありました。
それに、UCの存在もありました。小林さんの1年後に「可能性の物語」と銘打って始まったこの作品ですが、アニメ化まで話を進めても、これはどう見ても「可能性」を示しているようには見えなかった。むしろその根暗な作風と陳腐なストーリー展開、表情の乏しいキャラクターと示された暗黒宇宙世紀の歴史観が、何ともやりきれないものに映っていたことは確かです。エンディングのスケールだけ大きくして貧弱な作品を大きく見せようという発想と同じ発想が、この作品の進行に垣間見られたことは否定できません。
大型バイクを乗り回している元作者を捕まえて説得することはやや骨が折れましたが、「改訂版なら」ということで作品の再掲を承諾させました。作者も5年前のような労力はもう投入できませんし、そもそも「可能性を認めない」作品が主流の現代では再掲しても期待できるものは僅かでしょう。いっそキャラメカを全面的に入れ替えて、ネット書店で売った方がよほど良いとは私も思います。でも、この作品は「ライトハウス」だと思ってもいました。ネット書店じゃその役割を果たせないことがある。これは「改訂版」でなきゃいけない。
そういうわけで、作品の再掲を開始したのですが、初版と比べると上がってきた作品は「より文芸っぽい」感じになっていると思います。文章がやや硬くなっていますし、「1話30分」制限を外したので、初版に無かったエピソードも挿入されている。もう一回最初から読んでも、やはり楽しい作品だと思います。前のような豪勢な挿絵はもうありませんが、読んだ人間には「可能性の火」は灯すだろう、それを必要とする人がまだいると分かった以上、灯は灯しておかなければいけない。それは無意味なことかもしれないが、確かに全53話揃ったこの作品に対抗できる作品は存在しないことがある。勿体ないと思うが、これはやむを得ないかもしれない。そういうわけで、私も今回はレビュー等で協力することにしました。
[13]ライトハウス投稿者:越川紀彦投稿日:2009年12月26日(土)
利通さんの文をリスペクトして
私はフラガさんや利通さんのような長文は書けませんが、順番が来たようですので書きます。作品再掲載を主張した中では、たぶん私が最右翼ではないかと。毎日メール送りましたし、以前の討論会の面子を捕まえて協力するよう呼びかけましたし。このまま下げてしまうのは惜しいと思いましたね。実は小林さん、作品を下げた後、登場人物なんか書き直して全く違う話にしてネット書店で売ること考えていた。せめて小遣い稼ぎでもという感じでしたが、気持ちは分かりますが、私は「その前に作品ネットに残してくれ」と主張しました。
もう5年間も掲示されていた作品の商品価値?というと、もう「ガンダムの続編」というタイトルじゃ価値無いんじゃないかなというのは作者も了承している見方で、私もそう思いますが、でも、事情が違う、政権が変わったし、あのUCというものの存在がある。この作品はUCに対抗しうる「最強のツール」なんですよね。今も昔も。良く掲示板で「アナザー」何とかにしろって書く人いますが、じゃ、そんなアナザーの中で「オフィシャル」に対抗し得ると断言できるような作品ってありましたかと。いや、オフィシャルですら、「ガンダムSEED」「00」なんか悪ふざけじゃなかったですか。そもそも「アナザー」何とかの主張が一定の説得力を持つようになったのも、私の見るところ、この作品以降の話。それまでは妄言でしかなかった。ヒイロ・ユイの奇行を持ち上げるか、ドモン・ガッシュや東方不敗の破天荒さを支持するか、でも、それらの作品って「普遍性」って無かったんですよね。「ターンA」、このサイトでは誉める人多そうですし、私も嫌いじゃありませんが、これは全く別の世界の話でしょ。宇宙世紀の説明責任から逃げていることに変わりはない。だから、「アナザー」が論拠にできるのはこの作品しかないんです。対抗できる内容持っていますから。
「UCのような作品をあざ笑う」という意味でも残すべきだ、と、私は主張したのですが、別に改訂してくれなくても良いとは思っていました。しかし、期待以上の内容で復活させてくれましたので、続きも期待が持てそうです。基本は初版のストーリーラインなので安心感もある。少なくともこの作品は「UC不支持」の最強の論拠でしょうね、今も昔も。アニメ化がどうだとか版数がどうだとかなんて問題じゃないんです。UC(=富野)がいつまでもしがみついている虚妄のいちいちについて、反論の論拠を与えていることの方が重要なんです。あんたたち、いつまでも利権にしがみついて視聴者教育しようとしているけど、そんなことやっている間に視聴者はテレビや雑誌を離れてインターネット行くし、そもそもあんた達自体、東京都からお金もらわなきゃアニメ化も100万部もできなかったんでしょと。素で勝負してないじゃん、ガードを降ろせよ、その脂ぎった分厚いそれをさ。それ、面と向かって言えるんですよね、この作品の読者は。理由は読めば分かります。
もう一つ、これはやっぱり70年の作品にちゃんとした説明をしているということでしょうね。というか、これ以上まともな説明は無いと思います。スペースコロニー時代まで、どうも我々は千年待たなきゃいけないようですが、百年先よりは常識の範疇ですし、その他の説明もまともです。この点も「コロニーびるだー」なんていって、資源の問題をロクに説明もせずに安易に人類を地球から追い出したUCなんかよりもまともですね。移動の自由、商売の自由もこっちの方がありそうですし。「ああいうもの」を成立させるためには何をしてなきゃいけないか、そういう理屈はやっぱりこっちです。あの長ったらしいオープニングに眩惑されるかもしれませんが、でもあれ、内容空疎で大したこと語っていないんですよ、宇宙についても彼、瞳孔収縮すること、どうも分かってないようですし、別に地球連邦によらなくてもドバイは金融危機で破綻しましたからね。UCなんて言っている奴らは金と上っ面しか見てねえんだなとはSEED同様思いましたね。粗悪品でも売って良いのは明治時代までの話ですよ。作る側は楽なんでしょうけどね、でもそんなもんは持たない、縮むだけ。
作者さんには別の方法で投資は回収してもらうとして、とりあえず「ガンダムをベースにしたこの作品」はネットに飾っておいてくれと、それは意味あると思いますし、勧めた私も折を見て読みたいとは思っています。意見も言いますしね、私も提案しっぱなしはしないつもりです。
[14]Re: ライトハウス投稿者:利通投稿日:2009年12月26日(土)
支配者に都合良い理屈ばかり並べたUCが
背後にいた石原とか石場とかには都合の良い理屈だったことは否めませんね。お台場ガンダムの背後にも東京都いましたし、「アニメの殿堂」麻生でしょ? 実は私、UC読んでいて(全部読んでないけど)別のこと感じました。「ああ、今の自民の政治家って国民に対する責任から逃げてるんだな」と、「棄民政策?」、我々はともかく、彼らにはホントに共感あるんじゃないですか、東京都なんか人が多すぎて失業者多すぎて困っている。でも、私や小林さんの住んでいる長野県諏訪郡って全部合わせても人口15万くらいしかいないんですよね。岡谷市は5万、諏訪市も5万。
テレビで「年間自殺者3万人」なんて報道聞くと、「頼むから死なないで半分くらいこっちに来てくれよ!」と叫びたくなることがあります。2年で岡谷市は丸々消滅してしまうし5年経てば諏訪郡全体が消えてしまうような人口が命を絶っている。
橋下みたいな新自由主義の権化みたいな間違ったリーダーも出ている。石原は以前から間違っていた。彼ら、中国好きですよね、あと、アジアとか。そういった国々が「市場」になるとホントに思っているらしい。たぶん麻生もそうだっただろう。でも、たぶん無理でしょうね。彼らにはビジョンが無い。アジアや中国の人間が憧れるような「絵」を彼らでは描くことができない。UCという作品を読んでいて感じたのはこういう光景です。福井と同年輩で乱歩賞取った野沢という脚本家(坂の上の雲)は44歳で命を絶ってしまいました。でも、死屍に鞭打ちたくはありませんが、出来上がった「坂の上〜」見てみれば、悪いけれども「こんな絵じゃダメだ」と破り捨てたくなるというのも本当です。作品だってプロのものはスポンサーいますから、行間から透けて見える光景があるんです。
ただ、確かに越川さんのおっしゃる通り、政権が変わりました。越川さんと異なり、私はあれ、デマゴーグ政治の一歩手前に見えているのですが、UCみたいに石原だ石場だ富野だオリンピックだなどと背景事情を斟酌しなくても良い状況になったことは確かでしょうね。石原と創価学会が近いというのは通説ですし、そういうものを考慮する必要性が無くなったことはある。だったら、確かにおっしゃるように「この作品はあっても」良いんじゃないかと思いますよ。