Mobilesuit Gundam Magnificient Theaters
An another tale of Z reviews

不真面目なリメイク


 筆者はこの作品の前作、宇宙戦艦ヤマト2199にも良い点を与えていないが、それは作品を監督した出渕裕にバランス感覚が欠けており、絵など細部にはこだわるものの、キャラクターの性格を安易に改変したりなど、良いのは原作を忠実になぞった部分だけ、後付部分は全部ダメという作品になってしまったことがある。パート1の名場面、シュルツ艦隊を破ったヤマトが地球との最後の交信をする場面などはいじり壊された話の最たるもので、原作の方は何度見ても感動的な話だが、新しい方は出渕が加えた余計な夾雑物が鼻につき、原作とはまるで違う印象の話になってしまっている。ラストの沖田の最期も文脈が変えられすぎて失笑しかないものであった。

 それでも、一部の意見では「2199の方が2202より良作」というものがあり、それなりに幅を利かせているが、たぶん、一定の利害関係や思想傾向が見方を歪めてしまっているのだろう。筆者に言わせればどちらも駄作である。

 2202のリメイクは2199よりさらに平易であった。先ず前作2199があり、加えて40年前のヤマト2が映画「さらば宇宙戦艦ヤマト」のTV版ロングムービーで、放映の時点では都市帝国の正体も超巨大戦艦もすでにネタバレで、彗星帝国がテレサによって粉砕されるラストも視聴者には既知のことだった。一部設定変更があったものの、話は映画と同じ流れで進み、彗星帝国の登場の仕方が少し違ったり、巨大戦艦も出たけれども、次に何が起きるかは映画を見た視聴者にはおよそ予想できるものだった。

 にもかかわらずTV版は20%というシリーズ最高の視聴率を叩き出し、視聴者の満足度も概ね高かった。作品をリメイクするのに設定やストーリーの変更は必要なかったのである。もっとも、続編を作るため、この作品(ヤマト2)でもいくつかの取捨選択が行われた。ヤマトが撃沈せず、主要クルーのほとんどが生き残ったなどがその例である。

 こういう先例がありながら、2202は「さらば」や「2」をきちんと消化することをしなかった。原作に比べ、必ずしも良く考えられているとも優れているともいえない余分な話を多数放り込み、画面も原作のメカはどこへやら、副監督の小林誠のデザインが所狭しと活躍するという、見た目からして全く違うものになり、しかも原作以上にご都合主義で投げっぱなし、広げた風呂敷を畳みきれないブザマさが目立つ作品となった。

 例を挙げるなら、敵ガトランティスをクローンの王国とし、主体性のあるキャラがズォーダーただ一人となっていたことは、原作のようなサーベラーやデスラーなど個性的な悪役陣をほとんどないものにしていたし、戦艦が彗星から何百万隻も生えてくるという設定は戦いの様相を破滅ミサイルと波動砲の撃ち合いの単調なものにした。ヤマトの戦闘機も主砲もほとんど使われることなく、活躍するのはニードルスレイブばかり、そしてご都合主義の権化、発動したゴレムによってガトランティス人は突然死して滅びてしまう。

 さらに爆死した古代と雪が「高次元(あの世)」におり、ヤマトがそれを救出するというラストなど、どれを取っても原作の世界観ではありえないものばかりで、これらは時代の変わった「さらば」のリメイクに必要なことだったのかと思わせる。おそらく必要なかっただろう。そもそもスタッフが40年という時間の経過に何を残し、何を捨てるべきかについての真剣な議論が行った形跡が皆無である。

 「それはあなたです」という最終話の真田の演説、時間断層を壊してヤマトを古代救出に向かわせる、を、鼻白んで聞いていた筆者だが、筆者は彼らではない。制作権を盾にさんざん好き放題、壊し放題をやっておきながら、「我々と同じ」もないものである。2202が駄作になったのは彼らの責任だ。当初から作風に批判を浴びせ続け、制作者の素質の欠如、不適格性を論じてきた我々ではない。

 なお、本レビューの協力者である飛田カオルさんは筆者と違い2202のスタッフにさほど批判的でもなかったし、興味も実はなかった。最近になって副監督の小林誠がツィートを見てさえおらず、彼に何の敵意も向けたことのない彼女をツイッターでブロックしていたことを知ったが、ヤマトのリメイクは元々こういう器の小さい人間にはふさわしくない作品であり事業だったのだろう。

 作品の失敗は、視聴者にも新たな問題を提起している。現在ヤマトの制作権は東北新社と裁判で人格権の帰趨が決まった西崎義展氏の養子、事業家の西崎彰司氏が保持しており、出渕も福井もその許可の下に作品を制作していたが、今後続編を作るとして、業界に暗い彰司氏と彼の無知を良いことに作品を食い物にする三流創作家にこの作品の「正統な」続編を作る力がないことは明らかである。故西崎氏は権利を財団化すべきであった。この事実を踏まえながら、なお「あるべき」話を望むなら、それは個々の創作家が自分で作るしかないものである。