◇MUDDY WALKERS
ESSAY|阪神タイガース優勝記念エッセイ「みんな、強いタイガースを待っていた」
ある時、ふとしたことから亡き祖母の思い出話になった。開口一番に、母が言った。「おばあちゃんは、江夏が嫌いやったなあ」
祖母は編み物が上手く、母も私もいろいろな物を編んでもらった。まさかその祖母の思い出話に、プロ野球選手の名前が出てくるとは思わなかった。しかし思い起こせば、祖父母が家に遊びに来ると、夕食時のテレビはいつも巨人戦だった。当時小学生で、野球なんかこれっぽっちも面白いとは思っていなかった私は、見たいアニメが見られなくて大いに不満だったが、祖母は祖父と一緒に、画面に向かってあれこれ言いながら、私にとってはつまらないナイターを楽しそうに見ていた。
父はごく普通のサラリーマンで、当たり前のように巨人ファンだった。父が高校生の頃、甲子園であの王貞治が活躍していたのだ。その流れで巨人を応援しても不思議ではない。思えば私が高校生の頃は、ちょうど清原、桑田の甲子園時代だった。もっとも私は、だからといって彼らがプロ野球選手になっても、西武や巨人のファンになろうとも思わなかったが。
しかし、転機が訪れた。言わずと知れた江川卓のドラフトに絡む「空白の一日」事件である。父はこれがきっかけで、巨人ファンを辞めた。私はまだ小学5〜6年生で、一体何が起こっているのか当時はさっぱり分からなかったが、一つはっきりしたことがあった。巨人はずるく、江川は悪い。そして江川とトレードで巨人から阪神に放出された小林繁こそ正義なのだ。
プロ野球に興味はなかったが、阪神、阪急という名前にはなじみがあった。母の実家が西宮市だったのだ。家族で母の実家に遊びに行くと、高速道路の向かって右に西宮球場が、そして左に阪神甲子園球場が見えた。高速道路で西宮球場の横を通るとき、デーゲームなどをやっていると、スタンドに人が座って応援しているのが見えた。夏休みに遊びに行くと、決まって連れていってもらったのが「阪神パーク」だった。そしてこのとき、必ず阪神甲子園球場の前を通った。蔦のからまる外壁がそびえたつその姿には、いつも圧倒された。
中学生の頃だったか、さすがに今さら「阪神パーク」もないだろうと、ちょうど夏の全国高校野球をやっていた甲子園球場に初めて足を踏み入れた。高校野球開催時は、外野席は無料なのだ。試合は、一方が宇部商だったと思う。もう一方は覚えていない。テレビではおなじみの球場だが、実際に足を踏み入れてみると、その広さに驚いた。グラウンドにいる選手たちは、テレビで見るのとは違ってものすごく小さかった。その試合は投手戦で、外野にはほとんどボールが飛んでこなかった。外野席に座っていると、まるで試合が遠い所で行われているように思われた。外野を守っている選手も同じだったようで、ぼーっと突っ立って、ときどき手をブラブラさせたりしていた。いつもテレビで見る高校野球の選手はそのうち血管が切れてしまうのではないかと思うくらいハッスルしていたから、この選手の様子もまた新鮮な驚きだった。
しかしそれから、この愛すべき球場に毎年通うようになったかというと、そんなことはなかった。高校3年のとき、PL学園の清原と桑田がKKコンビと呼ばれて空前の高校野球ブームが巻き起こった。同級生の中には「きゃ〜クワタ〜、キヨハラ〜」などといってPL学園の校歌を熱唱する子もいたが、その頃の私はといえば、マイケル・ジャクソンとかボーイ・ジョージに熱を上げていたので、純朴そうな高校生にキャーキャー言う友人の心理がよくわからなかった。
そんなわけで、その翌年の1985年に阪神タイガースが21年ぶりのリーグ優勝を飾ったときも、熱狂していたわけでも何でもなかった。しかし、周囲の熱狂的な阪神ファンはそれこそもう、舞い上がっていた。私は当時大学1回生だったが、阪神ファンだという教授は、受講している学生が試験でどんなにひどい点を取ろうと全員成績を「優」にすると言い出して、その影響力に驚愕したのだった。自分もプロ野球では阪神を応援しようと決めた瞬間だった。
それから、本格的に阪神を応援しはじめるまで、ずいぶんと時間がかかった。女性ならたいていそうだと思うのだが、まずスポーツ中継というものになじみがないので、なかなか試合の初めから終わりまで、中継を見続けることができないのだ。私がまじめにスポーツ中継を見るようになったのは、プロ野球ではなくF1だった。アイルトン・セナのファンになってしまったのだ。そして次がJリーグだった。Jリーグが1993年に開幕した頃は、今とちがって水曜と土曜はたいていどこかのゲームを中継していた。試合時間が90分と決まっているのも、なじみやすい要因の一つだったと思う。
F1を見るようになってから、スポーツ・ノンフィクションというジャンルの本もよく読むようになった。最初に読んだのは海老沢泰久の『F1 地上の夢』で、F1関係の本を読みあさると今度は海老沢泰久の野球モノ(『監督』や『ヴェテラン』など)や山際淳司(文庫本『スローカーブをもう一球』にあの有名な『江夏の21球』が収録されている)などを読むようになった。また、唯一ともいえるスポーツ総合誌「Number」を時々買って読むようになった。そこで、スポーツとはこういう目で見るものなのか…ということを教えられた気がする。
そこで改めてテレビを見ると、スポーツ中継はといえばまず何をおいてもプロ野球である。そうして、私はやっと、テレビの前で腰をすえて野球中継を見ることができるようになったのだ。あの衝撃的な「阪神優勝」からずいぶんと時が過ぎていた。阪神タイガースはかつての優勝監督・ムッシュ吉田を迎えてもどうすることもできずに最下位。次の監督にあの野村克也氏を迎える英断を下していた。
阪神タイガースというチームは、スポーツ・ノンフィクションというジャンルからは見放されたチームだったように思う。その弱さには、目を覆いたくなるものがあった。1試合に7つも8つもエラーをされたら、野球のことをよく知らなくても、こんなチームが勝てるわけはないと思うようになる。「いつか強くなる」と応援する分には力が入るし、一勝に対する喜びも大きい。だが負けてばかりいるチームというのは、どうしようもない野球をしているから負けてばかりいるのだ。スポーツ・ノンフィクションというのはすばらしいゲームの感動を再現しようとするものだから、阪神タイガースが俎上に上らないのも無理はなかった。
「野球本サイト」という、その名の通り野球に関する本ばかりを集めたサイトがあるが、あれだけの人気球団であるにも関わらず、阪神タイガースを取り上げた本は驚くほど少ない。このサイトを見てみると、紹介されているのは江夏豊を取り上げたものと、1985年の優勝にまつわる話、あとは「甲子園のヤジ」などという阪神ファンを分析した本くらいのもので、監督の説く野球論など皆無である。つまり阪神タイガースとは、そういうチームだったのだ。
それに対して1999年に監督に就任した野村克也氏といえば、まさにキング・オブ・野球論である。ファンからも「何も考えずに野球をしているのだろう」と思われていた阪神タイガースには一番似合わない監督である。ファンの意見は二分した。「阪神にはとうてい合わない」という意見と、「今こそ野村監督のID野球が阪神に必要だ」という意見と。しかし、そんな論争はシーズンが始まるとどこかに吹っ飛んでしまっていた。6月に6年ぶりの首位に立ったからである。私は多くの阪神ファンは、もしかして阪神の弱くてどうしようもないところが好きなのではないかと疑っていたから、このときの盛り上がりに驚いた。そして、やっぱり阪神ファンも「強い」阪神を待望しているのだと分かったのだ。私ももちろん、それを心待ちにしていた。かつてはヤクルト・スワローズが万年最下位チームだったが、広岡達朗、野村克也という名将の手でいつしか、つねにAクラス入りして優勝を争うチームに変貌していた。私はその頃野球をよく知らなかったので、その劇的なシーズンを体験することはできなかった。でも、今その時がやってきたのだ。1985年の優勝から坂道を転がり落ちるように万年最下位チームになってしまった阪神タイガースが、今度は変わるのだ。
予想に反して、野村阪神は悪夢のような3年間を送らなければならなかった。阪神ファンの「野村は阪神には合わない」という意見は当たっていたのだ。やはり阪神ファンは自虐的ではあるが、自分の愛するチームをよく知っていた。確かに阪神タイガースには「野球理論」がなかった。しかし、もっと根本的な何かが欠けていたのだ。それは「一体何のために野球をやっているのか」ということではなかったか。
2001年末、野村監督夫人が脱税疑惑で逮捕され、野村監督は解任された。そして招聘されたのが、星野仙一氏だった。阪神・星野監督。それはタイガース再興に残された唯一の希望だった。
2002年、星野監督が就任して初めて選手の前で口を開いたとき、こう言ったのだという。
「野球を愛し、野球に思いっきり恋をしようじゃないか。そして一緒に優勝しよう」
彼は前年まで中日ドラゴンズの監督を務めていたが、恐らくタイガースの反対側のベンチから選手たちが戦う様子を見て、選手たちに欠けている「根本的な何か」が何であるかを見抜いていたのだ。
「優勝しよう」などと、4年連続最下位のチームの監督になって、やすやすと言えるものではない。しかし本来プロ野球というものは勝つためにやるのであり、球団は強かろうが弱かろうが、みな優勝するためにペナントレースに参加しているのである。野村監督がタイガースに野球理論を注入したとすれば、星野監督は闘魂を注入したのだ。
2003年9月9日、優勝を目前にした神宮球場でのヤクルト・スワローズとの3連戦。多くの人が、この3連戦で阪神優勝が決まるのではないかと予想していた。1985年に優勝を決めたのも神宮球場で、相手はヤクルト・スワローズだったのだ。
しかし、ヤクルト・スワローズは燃えていた。9日の第1戦をタイガースが落として、翌日の第2戦。試合前の杉村コーチのコメントを実況アナウンサーが紹介したとき、私はなぜだか胸が熱くなった。
「85年に阪神が優勝したとき、ヤクルトは弱い弱い、万年最下位のチームだった。2001年に優勝したときも、本当に苦労して苦労して、ボロボロになってやっと優勝したんだ。だから、阪神にも、もっとボロボロになって優勝してもらいたい。あの時のように、僕たちの前で騒いでほしくないんだ」。
コーチ一人の思いではなかった。いくらこの3連戦に勝利したところで阪神の優勝を阻止できないことはわかっていたが、それでもヤクルト・スワローズは死に物狂いで戦って、神宮球場での胴上げを阻止したのだ。井川は良いピッチングをして、マウンドの上でバッターを三振させるのを楽しんでいるように見えたが、相手の館山もすばらしかった。1点を争う白熱したゲームになり、勝負は延長11回にまでもつれこんだ。ウィリアムスが気迫のあふれるピッチングでその日2本の本塁打を打っている岩村から三振を奪ったが、抑えを任されたリガンがミスをした。ラミレスの当たりはセカンドゴロで、打ち取ったかと思われたのだが、彼はすっかり堅くなってしまっていて、1塁カバーに入るのを怠ってしまったのだ。こうして試合はあっけなく終了した。けれども、私は満足していた。なんとしても優勝の瞬間にフィールドにいたいがために必死に戦っているタイガースの選手に、スワローズの選手たちは真っ向から立ちはだかったのだ。シーズンを通して無様な野球をしてきたジャイアンツだったら、こんな試合はできなかっただろう。この瞬間、タイガースの選手も、そしてスワローズの選手も思いっきり野球に熱を上げ、野球を愛しているのだ。そんな思いがほどばしっているような気がした。
祖母が「江夏が嫌い」だったのは、なぜだったのだろうか。今ではその理由が分かる気がする。祖母は巨人を応援していた。いつもその勝利の前に立ちはだかり、三振を次々奪っていくのが江夏だったのだ。しかし阪神はいつのまにか、そんなふうに巨人ファンから嫌われる選手をすっかり失ってしまっていた。
今年、巨人ファンは阪神を嫌いになっただろうか。阪神が一番多くの貯金を稼いだのは「横浜銀行」と呼ばれたベイスターズだったが、楽に勝った試合は少なかった。いつも大量に得点差をつけて勝たせてくれたのは、ジャイアンツだった。阪神戦のジャイアンツは、こちらが気の毒になるほどみっともなくて、見ていられなかった。ジャイアンツの選手は、「もうどうでもいい」というような顔でプレイしていた。私もジャイアンツに嫌いな選手がたくさんいるが、祖母の「江夏が嫌い」とはきっと意味合いが違うだろう。祖母はマウンドの上の江夏が嫌いだったのだろうが、私がジャイアンツの選手が嫌いなのは、勝利のためにというよりはむしろお金のためにグラウンドに立っているということがミエミエになってしまったからである。
18年ぶりに優勝する阪神タイガース。このタイガースを見られて良かった。けれど、これだけで満足しているわけではない。別にかつてのジャイアンツみたいに、9連覇してほしいとは思わない。9月10日のヤクルト・スワローズがそうだったように、シーズン終盤まで全力で戦うチームであってほしい。巨人ファンから「○○は嫌い」と名指しで言われるほど、強い選手がいてほしい。私も阪神タイガースというチームを愛しているし、何より野球を見る楽しみを覚えたのだから。 (2003.9.12)
MUDDY WALKERS◇